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人生朝露

人生朝露

中国古典と八紘一宇。

もうすこし『淮南子(えなんじ)』を。

今回は、淮南子のはじまり、「原道訓」から。
『淮南子』。
『夫道者、覆天載地、廓四方、柝八極、高不可際、深不可測、包裹天地、稟授無形。原流泉浡、沖而徐盈。混混滑滑、濁而徐清。故植之而塞於天地、之横而彌于四海。施之無窮、而無所朝夕。舒之幎於六合、卷之不盈於一握。約而能張、幽而能明、弱而能強、柔而能剛、横四維而含陰陽、紘宇宙而章三光。甚淖而滒、甚纖而微。山以之高、淵以之深、獸以之走、鳥以之飛、日月以之明、星曆以之行、麟以之遊、鳳以之翔。』(『淮南子』原道訓)
→かの道とは、天を覆い地を載せ、四方をめぐり八極に開け、その高さは限りなく、その深さも極まりがない。天地を包みながら無形を授ける。泉から湧き出るかのように、空虚より出でてゆったりと満ちていく、こんこんと溢れながらその濁りは清らかになっていゆく。これを立てると天地は塞がり、これを寝かせると四海に行き渡り、昼夜を問わずはたらき続けて尽きることがない。。伸ばせば六合を覆い、纏めると一握りにも満たない。小にして大、暗にして明、弱にして強、柔にして剛、四方を支えてそこに陰陽の氣を孕み、宇宙をつなぐ綱として日月星辰の光を明らかにする。甚だしなやかであり、微細であるが、山はこれによって高く、谷はこれによって深く、獣はこれによって走り、鳥はこれによって飛び、日月はこれによって輝き、星々はこれによって巡り、麒麟はこれによって大地を遊び、鳳凰はこれによって天空を翔る。

宇宙 漢字。
『淮南子』の冒頭、のっけから「道(Tao)」について語られています。老子や荘子からの引用も多く、途中で『荘子』のように、「宇宙」「六合」といった時間や空間の概念の言葉も載っています。その後「俶真訓」で始まりと終わりを、「天文訓」で天文を、「堕形訓」で地理を、「時則訓」では時間について展開されていくわけです。

参照:『荘子』と『淮南子』の宇宙。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5186/

六合。
「六合(りくごう)」というのは、いくつかの意味がありますが、今回は「上下と四方(東西南北)」の空間として読みます。

「堕形(地形)訓」にはこういう文章が載っています。
『淮南子』。
『八殥之外、而有八紘、亦方千里、自東北方曰和丘、曰荒土。東方曰棘林、曰桑野。東南方曰大窮、曰衆女。南方曰都廣、曰反戸。西南方曰焦僥、曰炎土。西方曰金丘、曰沃野。西北方曰一目、曰沙所。北方曰積冰、曰委羽。凡八紘之氣、是出寒暑、以合八正、必以風雨。』(『淮南子』堕形訓)

『淮南子(えなんじ)』地形訓 八紘、八極。
・・・あまりにも長く抽象的な文章なので、省略したうえに図を載せておきますが、九州という中心があって、そこから幾何学的に表現できる地名が並んでいます。「八極」の内側に「八紘(はっこう)」という区画がありますね。

参照:中国哲学書電子化計画 淮南子 堕形訓
http://ctext.org/huainanzi/di-xing-xun/zh

時代は下りまして、三国志の時代のちょっと後。4世紀初頭に、左思という人が書いた「三都賦(さんとのふ)」という文章が流行しました。三国志の時代の魏の国の都・鄴(ぎょう)、呉の国の都・建業、蜀の国の都・成都の三都市の歴史や風俗、産物等々が綴られたもので、当時の人々がこぞってこれを回し読みして写本をしようとしたために洛陽の町の紙の価格が高騰し、「洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)」という故事ができたほどの人気ぶりでした。元々は漢代の張衡が書いた「二京賦」の三国志バージョンなんですが、これも『文選』に収録されて早い段階で日本に渡来しています。

洛陽紙貴。
『有西蜀公子者、言於東吳王孫、曰「蓋聞天以日月為綱、地以四海為紀。九土星分、萬國錯跱。崤函有帝皇之宅、河洛為王者之里。夫蜀都者、蓋兆基於上世、開國於中古。廓靈關以為門、包玉壘而為宇。帶二江之雙流、抗峨眉之重阻。水陸所湊、兼六合而交會焉。豐蔚所盛、茂八區而菴藹焉。」』(『文選』より「蜀都賦」左思著)
→西蜀の公子なる者、東吳の王孫に曰く「天は日月をもって基準とし、地は四海をもって紀とすると聞きます。九州は、星座に対応するようにそれぞれの国があり、崤山や函谷のある場所には帝王の都があり、黄河や洛水のほとりには王の都があるそうです。蜀の都は太古の世を礎として、中古において国が開かれ、都城の前は霊関の山を開いて門とし、後ろは玉塁の山を抱いて屋根としており、二つの河が帯のように巻かれ、険しい峨眉山に向かっております。水路と陸路の要衝であり、六合の交わりあうところでもあります。土地も豊かで、土地の八方で作物がのびのびと育つのです

『東吳王孫囅然而咍、曰「夫上圖景宿、辨於天文者也。下料物土、析於地理者也、古先帝代、曾覽八紘之洪緒。一六合而光宅、翔集遐宇。鳥策篆素、玉牒石記。烏聞梁岷有陟方之館、行宮之基歟。」』(同「呉都賦」)
→東呉の王孫は大笑いしていわく、「天を見て星座を観察するから、天文を語り得るし、大地を観察しているから、地理を分析できるのです。古の帝王の時代、八紘の果てまで見聞する大事業の末、六合(天地四方)を一つの家とし、帝は方々を飛ぶように行幸されたのです。(以下略)」

『爰初自臻、言占其良。謀龜謀筮、亦既允臧。修其郛郭、繕其城隍。經始之制、牢籠百王。畫雍豫之居、寫八都之宇。鑒茅茨於陶唐、察卑宮於夏禹。古公草創、而高門有閌。宣王中興、而築室百堵。兼聖哲之軌、并文質之状。商豐約而折中、准當年而為量。思重爻、摹大壯。覽荀卿、采蕭相。僝拱木於林衡、授全模於梓匠。遐邇悦豫而子來、工徒擬議而騁巧。闡鉤繩之筌緒、承二分之正要。揆日晷、考星耀。建社稷、作清廟。』(同「魏都賦」)
→魏王(曹操)が初めてこの地に足を入れたときに占ったところ、亀によっても筮竹によっても吉と出たので、内や外の壁を修繕して、城砦を修復した。この計画は、百王の制度に倣い、長安や洛陽の都や、八方の都市の構造を写した。かつて堯が萱を切りそろえなかったことや、禹が低い宮殿を建てたこと、周の草創期には高い門を備えておき、宣王による中興の後に百堵の部屋を築造したこと等々、聖賢の時代の軌跡を鑑み、素朴さと華やかさ、豊かさと節約を折衷して、当代の時節を考慮した。『易経』にある「大壮」の卦や、荀子、蕭何の言葉も参考にした。大木を集め、都市の全体図を示すと、地元の民衆は喜んで手伝いをするように集まってきた。職人たちはコンパスや墨縄を持ちながら議論して、春分と秋分の太陽を基準に方角を見て、太陽と星の位置を測って、土地神や先祖を祭る廟を建てた。

・・・それぞれの三国志の時代の「魏」「呉」「蜀」のそれぞれの都市のなりたちを描いた部分を抽出してみましたが、おおよそ、地理上の観念的な用語として「六合」「八紘」「宇」という単語が見られます。これとそっくりな言葉が8世紀の『日本書紀』に表れます。

神武天皇と太陽のカラス。
『三月辛酉朔丁卯、下令曰、自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未清、餘妖尚梗、而中洲之地、無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素。巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時。苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山。東南橿原地者、蓋國之墺區乎。可治之。是月、卽命有司、經始帝宅。』(『日本書紀』巻第三 神日本磐余彥天皇 神武天皇)
→紀元前六六二年三月七日、令を下して曰く「私が東征に出てから今年で六年となった。天神の御威光のおかげもあってか、凶徒は誅殺された。いまだ周辺に平定されていない土地もあり、残る災いはあるけれども、中洲之地(うちつくに)での騒乱はない。
 皇都をひらきひろめて御殿(大壮)を建造するべきである。今はまだ若く暗いが、民の心は純朴である。人々は巣や穴に住んていてこの風習が当たり前のように生活している。そもそも大人(聖人)が制(のり)を立ててこそ、道理が行われる。人民の利益となるならば、どのようなものであろうとも聖人が行うものとして妨げはない。今、山林を開いて払い、宮室を造って、謹んで高い位を示してこそ、人民は鎮められるのである。
 上は乾靈授國(あまつかみのくに)を授けられた徳に応え、下は皇孫の正義を養われた心を広めよう。そしてその後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を覆って宇(いえ)とすることはまた、素晴らしいことではなかろうか。見れば、かの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原の地は、思うに国の真中(もなか)だろう。ここに都を造ろう。」
 この月、役人に命じて帝宅(みやこ)を造りが始まった。

土蜘蛛という土着の人々を駆逐した神武天皇が、橿原の地に、最初の都を建てたとしている『日本書紀』の記述は、『三都賦』をベースにしたことが見て取れます。他にも『易経』の「大壮」の使い方や、「經始」という用語がそうですね。

参照:『淮南子』と『日本書紀』 ~天地開闢~。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5187/

ちなみに、『日本書紀』の「民心朴素。巣棲穴住、習俗惟常。」というところは『荘子』の「有巣氏の民」の記述と一致します。

荘子 Zhuangzi。
『且吾聞之古者禽獣多而人少、於是民皆巣居以避之、晝拾橡栗、暮栖木上、故命之曰有知生之民。古者民不知衣服、夏多積薪、冬則煬之、故命之曰知生之民。』(『荘子』盗跖 第二十九)
→「聞いたところによると、その昔、人よりも獣の方が多くて、人間様は、トチの実や栗の実を拾って食い、夜には木の上で眠っていたそうじゃねえか。「有巣氏の民」とかいうそうだ。その昔、人間様は衣服すら知らず、夏のうちから薪をかき集めて、冬の寒さに備えていたそうだ。これを「知生の民」というそうだ」。

八紘一宇。
いずれにしても、第二次大戦中の日本軍のスローガン、「八紘一宇(はっこういちう)」「六合兼都(りくごうけんと)」というのは、この部分から生まれたわけです。

参照:Wikipedia 八紘一宇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87

今日はこの辺で。


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